レコード大賞に「平尾昌晃賞」設置の動きも

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歌手の畑中葉子とのデュエット曲『カナダからの手紙』や、五木ひろしの『よこはま・たそがれ』など、多数のヒット曲を手掛け、戦後を代表する作曲家の平尾昌晃さんが7月21日、肺炎のため東京都内の病院で死去していたことが分かった。79歳だった。2年前には肺がんを患い、闘病していた。

東京都出身の平尾さんは、昭和33年に歌手としてデビューし、『星は何んでも知っている』や『ミヨちゃん』などの曲をヒットさせた。その昭和30年代には“和製プレスリー”と呼ばれ、絶大な人気を獲得していた。また、作曲家として和洋折衷の曲作りを模索し、ソフトな演歌から流行歌までを手がける多彩さで人気者になった。その発露が小柳ルミ子の『わたしの城下町』(1971年)、『瀬戸の花嫁』(1972年)だ。1973年には五木ひろしの『夜空』で日本レコード大賞を初受賞した。

「日本の歌謡界における実績は絶大なものがあります。そのため、今年のレコード大賞では『平尾昌晃賞』を設ける可能性が高くなりました。もともと歌手でしたが、1960年代半ばから作曲家に転身。1966年に作曲した布施明『霧の摩周湖』と、1967年の梓みちよの『渚のセニョリータ』の2曲で日本レコード大賞作曲賞を受賞。このころから提供した曲が次々とヒットして、歌謡曲に洋楽、民謡、童謡などなんでも取り入れる『ミックスコンポーズ』の曲作りを確立しました。それは“平尾メソッド”と呼ばれ、多くの作曲家が参考にし、いまも教科書的な存在となっています」(音楽関係者)

 

作曲家として輝かしい実績の数々

後年は後輩の育成に力を注ぎ、『平尾昌晃歌謡教室(現・平尾昌晃ミュージックスクール)』を開校。『狩人』や森口博子、中村あゆみらを育てた。

「こうした才能あふれる歌手育成や遺した曲の実績は、やはり賞に名前を付ける価値にふさわしいです。1978年に畑中葉子と『カナダからの手紙』をデュエットして大ヒットしましたが、歌手としてしか知らない人もいるのではないでしょうか。平尾さんが偉大な音楽製作者として賞になるのは大賛成です」(レコード会社社員)

小学校時代からラジオで英語の歌詞を覚えるほど熱心に洋楽を聞き、高校時代はできたばかりの日本ジャズ学校に通い、進駐軍キャンプやジャズ喫茶で腕を磨いた“和製プレスリー”は、ミッキー・カーチスや山下敬二郎らと『日劇ウエスタンカーニバル』などで爆発的な大人気ロカビリー旋風を巻き起こした。

「レコードの時代の巨星がまた墜ちた。平尾の名前が賞として残るならうれしい」(TBS関係者)

平尾さんの逝去にお悔やみ申し上げます。

 

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