
藤本タツキ新作は『ルックバック』批判への回答!? 読切『さよなら絵梨』に込めたメッセージ (C)PIXTA
『チェンソーマン』の作者・藤本タツキによる新作読み切り『さよなら絵梨』が、4月11日に『ジャンプ+』で公開された。過去作と同じく、フィクションのあり方を探求する作品となっていたが、読者の中には隠されているであろうメッセージを読み取る人もいるようだ。
※「さよなら絵梨」の内容に触れています
同作は、男子高校生・伊藤優太が、母から“病気で死ぬまでの日々”を撮影するように頼まれるシーンから始まる。彼はその映像をドキュメンタリー映画に仕立て上げ、高校の文化祭で公開するのだが、最後に仕掛けた奇抜なオチのせいで批判を浴びてしまう。
優太は不登校になり、病院の屋上へと向かうのだが、そこで絵梨というミステリアスな少女と遭遇。人生をかけて「映画」と向き合っていくことになる──。
『チェンソーマン』『ルックバック』の藤本タツキ 待望の最新長編読切『さよなら絵梨』本日配信❗️
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多くの皆様に読んで頂けたら幸いです。
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藤本の作品では映画をモチーフとした描写が多用されてきたが、「さよなら絵梨」では自主制作映画の監督が主人公に。これまで以上にストレートに、作者の創作論が描かれている。その熱力は多くの人の胸を打ったようで、公開から1日も経たずに200万PVを突破したほどだ。
その一方で、読者の中には前作『ルックバック』の騒動を思い出す人もいる様子。《「ルックバック」に対しての世間の反応へのアンサー的な側面もあるのかも》《冒頭の展開ルックバックにイチャモンつけられた時の意趣返しだよね…》《藤本タツキ先生による世間へのアンサーなんじゃないかなと強く感じた》といった推測が広がっている。
また、ミステリー作家・森晶麿も「『ルックバック』でのつまらないあれこれの声への完全なる返歌」として、そうしたメッセージ性を高く評価していた。
『さよなら絵梨』、蘇る絵梨は創作のマグマの象徴か。また『ルックバック』でのつまらないあれこれの声への完全なる返歌となっている点も見逃せない。物語と物語る行為との隔たりを厳密に測量する「観る者の生き血を吸う漫画」だ。また一度絶賛しながら専門家の意見で感想を翻す輩は出るだろうか?
— 森晶麿 Akimaro Mori (@millionmaro) April 10, 2022
「ルックバック」騒動へのアンサー
「ルックバック」は、昨年7月に『ジャンプ+』で公開された読み切り。明言こそされていないものの、2019年に起きた「京都アニメーション放火殺人事件」をモチーフとして扱っている側面がある。たんなる物語のネタにしたわけではなく、フィクションに何ができるのかを問いかける真摯な姿勢だったが、一部では「配慮が足りない」と物議を醸していた。
そのほか、精神疾患の患者がストーリー上の“悪”として描かれているという批判も。これによって、作品の内容が一部修正される事態となったことは記憶に新しい。
では、なぜ「さよなら絵梨」が「ルックバック」騒動へのアンサーと見られているのだろうか。理由の1つとしては、「母の死」を描いた映画が不謹慎だと叩かれるシーンが挙げられる。この映画は悪ふざけではなく、主人公にとって必然的な理由があって生み出された作品だ。映画のうわべにしか反応しない観客たちの姿は、たしかに「ルックバック」を批判した人々の姿に重なるところがある。
また、映画における“善悪”の描き方も印象的。作中ではドキュメンタリー映画のなかで善人として表現されていた人物が、実際にはまったく別の側面をもつ人間だったことが示唆される。すなわち映画が現実をありのままに伝えるものではなく、作り手によって再構成された世界として定義されるのだ。
ここでいう映画はおそらく漫画に置き換えることが可能であり、「ルックバック」で描かれた“悪人”も連想せざるを得ない。ただ、この点については世間への反論というよりは、「善人/悪人を描くことの責任を背負っていく」という決意表明にも見えるかもしれない。
昨今では、フィクションをフィクションとして受け取れず、現実と結びつけて批判する人々が多くいる。「さよなら絵梨」は、そうした漫画を読めない人々に向けた“フィクションの手ほどき”なのではないだろうか。
文=Tら
【画像】
Khosro / PIXTA