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若者はいつの時代も大人たちに反抗しようとするもの。多少社会から逸脱しても、若気の至りとして許される…という雰囲気が昔はあった。しかし最近では若者たちの“理由なき反抗”を批判する風潮が強くなっているようだ。
先日掲示板上では、尾崎豊の名曲『15の夜』をめぐる議論が繰り広げられ、大きな注目を集めていた。同楽曲の「盗んだバイクで走り出す」というフレーズはあまりにも有名。しかし今の若者はバイクを盗まれた側に感情移入し、憤りを覚える…というのが実情らしい。
ネットユーザーの多くは、歌詞の内容に対して《この支配からの卒業とか歌詞ぺらっぺらすぎる》《昔の人は悪いことするのがかっこいいと思ってたんやろなぁ》《今で言うところのへずまりゅうでは》などと激しい批判を繰り広げていた。
とはいえ「15の夜」は元々、反社会的な行為を美化する歌ではない。そこで表現されているのは、大人たちと分かり合うことができず、学校や家から疎外されて生きる者の心。どこにも居場所のない15歳の少年はバイクで走り出すことで、自分が自由になったかのような錯覚を得る…。
多くの人は、社会の中で一度は疎外感を覚えたことがあるはず。しかしなぜか「15の夜」に対しては共感ではなく、「不謹慎だ」とあざけるような視線が向けられてしまう。もしかすると本心では共感を覚えていたとしても、それを公言すべきではないという判断が働いているのかもしれない。
1ミリたりとも「不謹慎」を許さない社会へ
そもそも曲の中で「バイクを盗む」と歌ったところで、それが法に触れるわけでもない。しかし現在のネット社会では、たとえフィクションであっても許さない雰囲気が漂っている。いわば善悪に関する“潔癖症”のような状態だ。
またフィクションだけでなく、お笑いのネタにおいて不謹慎であることも反発を招くよう。昨年12月に放送された『M-1グランプリ2020』(テレビ朝日系)では、お笑いコンビ『ニューヨーク』による漫才が批判を集めていた。
「ニューヨーク」が決勝の舞台で披露したのは、何気ないトークの合間にさまざまな軽犯罪を仄めかしていくというネタ。拾った一万円札を懐に仕舞う、自転車の飲酒運転、傘の窃盗…。もちろんあくまでボケでしかなく、その都度ツッコミを受けていたのだが、一部の視聴者は気にくわなかったようだ。ネット上では《いくら軽くても犯罪ネタとか有り得ないやつは見る気失せる》《不謹慎すぎて俺はムリ。子どもには見せたくないし、笑いにして欲しくない》《ほんとーに非難されるべきは不謹慎ネタをゴールデンでやりやがったニューヨークだと思うんだよなあ》《ニューヨークのネタは不謹慎だと思うんだけど、笑いとして許されるんやねぇ…わからん》とドン引きする声が上がっていた。
ことほどさように、現代で「不謹慎」をコンテンツに昇華するのは至難の業。なぜ人々が反社会的なものを許せなくなったのか…その奥底には思春期の少年の心よりも深い闇が潜んでいるのかもしれない。
文=大上賢一
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